2022.5.8 メッセージ内容

「仕えて生きる」マルコ10:35-45

あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。(44節)

主イエスがこの地上に来られた目的は、「人々に仕えるため」でした。神の御子であったのに馬小屋で生まれ、若き日を大工として過ごされました。また、宣教を始められてからは、病や貧しさに苦しむ人々、罪に悩む人々に仕える姿を弟子たちに示されていたのです。神の国は、仕える人々によって実現することを教えるためでした。

一、自分の利益を求めない

ゼベタイの息子たち(ヤコブとヨハネ)は、もともと漁師でしたが、父と舟を後に残して主の弟子となりました。マタイによると、親の仕事を継がずに勝手な生活をしていると思った母親が、息子を連れて主のもとに行き、時がくればしかるべき地位に着けるようにと願ったのです。しかし、主は彼らに厳しい返事をなさいました。彼らの願いが主のみ旨と正反対だったからです。

どんな親でも、多くの場合、自分の子どもたちが安定した生活を過ごしてほしいと願うでしょう。どうしても自分の子どもの利益になることを望んでしまいます。でもそれは主の願われることではないのです。主は弟子たちがそのような繁栄の生涯を送ることを願っておられませんでした。親たる者は、主のこの言葉を無視してはなりません。正しい人生の目的を子らに教えるべきです。

二、苦難の杯を飲む

主は彼らに、「わたしが飲む杯を飲むことができますか」と尋ねられました。旧約聖書においては、杯は「神の怒り」を象徴しています。主は、ゲッセマネの園で祈られた後、この杯を飲まれました。弟子たちもまた、苦難の杯を飲まなければなりません。そして、ヤコブは最初の殉教者となり(使徒  12:2)、ヨハネはパトモスへ島流しになったことを聖書は記しています。

仕える生き方は、簡単なものではありません。時には苦難を経験することもあるでしょう。しかし、その苦難によって救われる人々があることは確かです。主の十字架の苦難によって、全人類が救われました。多くの宣教師や伝道者の苦難によって福音は全世界に広がりました。私たちの生活においても、誰かを助けるために多少の苦難があっても、それを避けるべきではありません。

三、自分のいのちを与える

ゼベダイの息子たちことを聞いて、他の弟子たち腹を立てました。皆も同じような事を考えていて、出し抜かれたと思ったからでしょう。そんな弟子たちに対して、主は、「先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」と教えられたのです。それだけでなく、「自分のいのちを与える」とさえ言われました。これこそ、「仕えて生きる」ことを示す究極の模範でした。

現代においては、自分のいのちを誰かに与える機会はほとんどありません。しかし、日野原重明医師は、「いのちとは時間だ」と述べています。自分の時間を他の人のために用いることは、仕えることです。1週間のうちの1時間、教会で礼拝することは、主に仕える具体的な表現です。赤ちゃんや高齢者、あるいは知人を助けるために時間を用いるなら、それは仕えることです。

主イエスは、人に仕えるためにこの世に来られました。それを知っている私たちが、だれかのために仕えることは当然ではないでしょうか。それこそが本当の意味で、「先頭に立つ」ことです。このことは最近「サーバント・リーダシップ」と言われるようになりました。このような生き方をする一人ひとりとなろうではありませんか。