2022.5.1 メッセージ内容

「罪人を招く方」ルカ5:27-32

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。(32節)

ここに登場するレビとは、12弟子の一人で、福音書記者でもあるマタイです。マタイは自分自身もこの記事を記しています(9:9-13)。彼は、自分が罪人であることを自覚していました。しかし主は、そのことをご存じの上で、あえて彼を弟子とされたのです。ルカは、客観的に、マタイがどういう人物かを次のように描いています。

一、差別されていた罪人

当時、取税人はローマ帝国の手先と考えられており、一般のユダヤ人は彼らを毛嫌いしていました。ザアカイの場合でもわかるように、彼らはお金持ちでしたが、親しい友は一人もいなかったのです。エリートでしたが、尊敬されることはありませんでした。そんな人物に、主は自分のほうから声をかけられます。彼はどんなに嬉しかったことでしょうか。

罪人といっても、その人なりに辛い経験をしていることを忘れてはなりません。問題は、罪を犯しながらそのことに気づかない、いや、罪ではないと考えていることです。家庭環境や欲望のゆえに悪の道をたどりながら、それを他人や政治家のせいにする人も問題です。自分の罪を自覚している人は、主のように優しい言葉をかけてもらえるだけで嬉しいのです。

二、悔い改めた罪人

彼は喜びのあまり自分の家に主を招き、盛大なもてなしをしました。だれからも強要されはしなかったでしょうが、多分ザアカイと同様、自分のそれまでの行状を悔い改め、新しい出発をすることを祝いたかったのです。それを見た品行方正なパリサイ人たちは、イエスの弟子たちに向かって、小声で文句を言います。彼らには取税人に対する嫌悪感があったからです。

その時、主は、「医者がいるのは病人です」と言われました。自分が病気だと気づいている人は医者のところに行きますが、病気でない人は医者を必要としません。ところが、「自分は病気でない」と思っている人でも、恐ろしい病気になっている場合もあるのです。病気であることに気づくなら、不摂生な生活を改めるでしょう。悔い改めるためには、そのような謙遜さが不可欠です。

三、従っていく罪人

主がレビに、「わたしについて来なさい」と言われたことに注目しましょう。みんなから嫌われている取税人を弟子にしたら、主の人気が下がるかもしれません。しかし主は、人の評判よりもレビの人生が大切でした。そのことが分かったので、レビはすべてを捨てて主に従っていったのです。自分を愛してくれる方に出会うことは、財産よりも遥かに価値のあることでした。

高価な真珠を一つ見つけた商人が、自分の持ち物すべてを売り払ってその真珠を買うように(マタイ13:46)、レビは喜んで主に従っていきました。そして、高い教育を受けたからこそできる、主イエスの生涯を書き記すという重要な仕事を成し遂げたのです。主に従っていくなら、主はほかのどの人とも違う、その人しかできないことをさせてくださいます。

私たちは、自分が健康な者だと思ってはなりません。自分が弱い者、罪深い者、死に至る病をもっている者であると認める謙遜さが必要です。病人だからこそ、新薬(新約)と旧薬(旧約)を毎日服用しましょう。名医である主イエスはそのような病人を癒やし、肉体と心と魂を健康にしてくださるのです。