2022.4.10 メッセージ内容

「救いの完成」ヨハネ19:28-30

イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。(28節)

木曜日の夜に逮捕された主イエスは、夜を徹しての宗教裁判と政治裁判によって有罪と宣告されました。そして翌日金曜日の午前9時頃に十字架につけられ、午後3時頃に息を引き取られます。これは、アダムが罪を犯して以来、神が人間の救いのために用意されてきたすべての計画が完了する厳粛な時でした。

一、主の苦しみによる救い

人間は生きている限り苦しみを経験します。仏教ではそれを運命だと諦めることで、儒教では悪を行ったゆえの結果として、苦しみの問題を解決しようとしました。しかし聖書はまったく別の救いの道を示しています。それは、苦しむ必要のないお方が、人の受けるすべての苦しみを身代わりに背負われることでした。「わたしは渇く」との言葉は、主の極度の苦しみを示しています。

鞭打ちと両手足の釘による肉体の苦しみ、弟子から裏切られ民衆から嘲られるという心の苦しみ、そして父なる神から捨てられたとの霊的苦しみは、神の子である主イエスが受ける必要のない苦しみでした。本来は罪人が受けるべきこれらの苦しみを、主はすべて受けられました。まさに聖書の預言がこの時、成就したのです。

二、神のご計画による救い

主の十字架は、旧約聖書全体が預言していることでした。アダムとエバが楽園から追放されたときに、初めて動物が殺されその毛皮が彼らに与えられました。「血を流すことなしに、罪の赦しはない」からです。だから、旧約時代には多くの犠牲の動物の血が流されました。しかし動物の血では人の罪の状況を救うことはできません。本当の犠牲は、全く罪のない人間でなければならないのです。それができるのは神の子だけです。

ヒソプは、出エジプトの時、犠牲の小羊の血を門に塗る時に用いられました。酸いぶどう酒は、品質の悪いものでローマの兵士の飲み物でした。旧約聖書は、ぶどう酒を神の憤りの象徴として描いています(イザヤ51:17)。苦しみで渇く者に酢を飲ませるという詩篇の預言にも注意しましょう(詩69:21)。これらはすべて、神のご計画がすでに存在していたのです。

三、主の従順による救い

主イエスは、神のご計画に従順に従われました。ゲッセマネで「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と祈られたように(ルカ22:42)。私たちが苦しむのは、自分の思い通りにならない場合が多いものです。しかし、すべてのことに神のご計画があるなら、苦しみにも意味を見出せます。神のご計画と信頼して、従順に受けとめるなら、神の御業が示されるのです。

主は最後に「完了した」と言われました。神のご計画がその通り実現し、罪人の救いが完成したのです。本来、何の苦しみも受ける必要のないお方が、私たち罪人が受けるべき神の憤りの杯を飲み干されることによって。ギリシャ語で「テテレスタイ」というこの言葉は、神のご計画の完了だけでなく、私たちの苦しみの完了も意味しているように思われます。

主イエスが自分の罪の身代わりになられたと信じるだけで、私たちは神の子とされ、永遠の命を受けることができます。この信仰があるなら、どんなに平安でしょうか。良い行いをしたり、自分を鍛錬したりすることではなく、ただ神の愛のご計画を信頼して歩むなら、将来を心配しなくても、私たちの救いは完成するのです。