2022.3.27 メッセージ内容

「香油を注いだ女性」マルコ14:3-9

「福音が宣べ伝えられるところでは、…この人がしたこともこの人の記念として語られます。(9節)

今日の個所は、受難週の水曜日に起こった出来事と推測されます。宗教的権威者からの圧力が強くなる中で、このことは主イエスを非常に力づけました。一人の女性が主に香油を注いだのです。4福音書全部に記されているこの事件から教えられることは何でしょうか。

一、無駄に見えること

この女性は、高価なナルドの香油を主イエスの頭に注ぎかけました。現在では300万円ほどの価値があるものです。弟子たちの何人かの者(その中にユダもいました)がそれを見て憤慨するのも無理はありません。貧乏な人たちを助けることのほうが良いように思えます。現在でも、助けるべき人はあちこちにいますし、そのほうにより大きな意味があるように思えます。

2000年間、教会は社会福祉のためにすばらしい貢献をしてきました。目に見えるそれらの活動と比較すると、主イエスのために何かをすることは無駄なように思われるかもしれません。しかし、人のためにすることは、主イエスに対する感謝の思いがあってこそ成り立つものです。神が与えてくださった恵みに対する応答こそが、すべての善行の動機となるのです。

二、自分にできること

この女性は、べタニア村のマリアだったと推測されています。主が弟ラザロをよみがえらされたことは有名です(ヨハネ12章)。それに対する感謝があったので、このような行動になったのでしょう。当時の女性は土地も現金も自由にできませんでしたから、結婚資金として少しずつ貯えていた香油なのかもしれません。それは、彼女が主に対してできる唯一のことでした。

今の時代に主イエスを肉眼で見ることはできません。では主に感謝して私たちにできることは何でしょうか。それは、主との祈りの交わりです。自分のすべてを主に委ねることです。マリアがつぼを割ってすべての香油を主に注いだように、自分に今できることを主のためにするのです。教会の掃除も、家族への伝道も、主のためにしていると考えるなら、なんと幸いでしょうか。

三、記念とされること

マリアは、主が金曜日に十字架につけられるとは思ってもいなかったでしょう。しかし主は「埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれた」と明言されました。兵士に鞭を打たれている間にも主の体から芳しい香が漂っていたでしょう。そして、埋葬の時にも復活の時にもその香は絶えませんでした。罪人のために身代わりとなられた主の福音が表れています。

罪人が神の子とされ、神の国に入ることができるのは福音です。これは主イエスしかできないことです。しかし福音を経験した者たちは、こんどは自分が福音を示せる者となれます。主は昇天の直前まで弟子たちと一緒におられましたが、その後は、弟子たちが罪人と一緒に生き、福音を伝えました。これは、マリアが主のためになしたことと同じです。彼女の記念として語られることは、私たちの毎日していることなのです。

私たちは、主のために何ができるでしょうか。他の人々には無駄に見えることであっても、主への愛に応えようとしてなすことは、それ自体が福音となるのです。世界の平和のために祈ることも無駄ではありません。どんな小さなことでも、「みわざのため、主よ、きよめて受けませ」と歌いつつ、歩んでいきましょう。