「生涯の記念日」ルカ19:1-10
今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。(9節)
聖書の中には、主イエスと出会った多くの人々が記されています。ほとんどの人が、主と出会った日に、素晴らしい経験をしているのです。この箇所に登場するザアカイも、そんな人の一人でした。それは、生涯の記念日となる出来事でした。その日にどのようなことが起こったかを、聖書の中から学んでみましょう。
一、主イエスを求めた
エリコという町は、聖書の中に何回も登場する繫栄した町です。ザアカイはそこでローマ政府から任命された取税人として活動していました。彼の名は「義人」という意味だったのですが、それと全く逆の生き方をしていました。ローマ政府の権威を悪用し、同胞から高い税金を巻き上げていたのです。背が低かったこともあって、誰からも相手にされず、寂しく日々を過ごしていました。
彼は、主イエスがエリコの町に来られるとのうわさを聞いて、この有名人と一度会ってみたいと思ったのです。人垣の中で主を見ることができなかったので、持ち前の機転を利かせて木に登り、主の姿を見ようとしました。何としても、主イエスに会いたいという願いをもつ人を、主が無視されるはずがありません。主ご自身が、彼の名前を呼ばれたのです。
二、主イエスの愛を知った
主が自分の名前を知っておられたことだけでもびっくりなのに、主は彼に「わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」と仰せられました。金持だったのでかなり立派な家に住んでいたと思われますが、来てくれるような人はほとんどいませんでした。主のことばに、ザアカイは、主が自分を愛してくださっていることに気づいたのです。彼は喜んで主を迎え入れました。
まったく義人ではないザアカイを「義人」と呼び、彼の家を訪れた主に対して、多くの人は批判的に、「罪人のところに行って、客となった」と文句を言いました。罪人だからこそ愛されるのが主イエスであることを、彼らは理解していなかったからです。私たちも間違いやすいです。私たちが救われたのも、主が愛をもって選んでくださったからだということを忘れてはなりません。
三、主の生き方に倣った
主は、ザアカイの過去の罪を指摘されることはありませんでした。しかし、彼のほうから自分の罪を告白し、償いをすることを申し出ました。それは主の愛に満ちた生き方を知ったからです。罪人の自分を愛してくださった主に倣って生きたかったのです。それによって、自分の財産がなくなったとしても問題ありませんでした。先々週に学んだ金持の青年にはできなかったことを、主は実現させてくださったのです。
主が「この人もアブラハムの子だから」と言われたことにも大きな意義があります。たとえ悪人であっても、主が選ばれた民なのです。新約の時代ならなおさらです。異邦人であっても、私たちは、「神のかたち」に造られました。しかしそのことを知らずに、自分勝手に生きている人は、どれほど多いことでしようか。残念でなりません。
主は、私たち一人ひとりの名をご存じです。そして、一人ひとり愛して、その心の内に来たいと願っておられます。それを断ってはなりません。喜んで心の中にお迎えしましょう。その決断をするなら、その日が「生涯の記念日」となるのです。主の愛がわかればわかるほど、私たちの生き方は昔と違ったものとなっていきます。