2022.2.27 メッセージ内容

「本物の信仰とは」マルコ10:46-52

さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。(52節)

先週学んだ金持ちの青年と対照的なのが、同じ章の中で記されているバルティマイという人物です。彼は、当時のユダヤ人の中でも最も貧しく、しかも盲目の人でした。金持ちの青年は富に信頼していたのですが、バルティマイは信頼するものが何もありません。だからこそ、本物の信仰とは何かを悟ることができたのです。

一、自己の無能を知る

社会福祉など全くなかったこの時代には、生きるための手段は物乞いをするだけでした。主が近くにおいでになったことを聞いても、主のもとに駆け寄ることもできません。自分の置かれていた道端から「私をあわれんでください」と叫ぶだけでした。あまりにも騒がしかったので、周囲の人々は彼を黙らせようとしたのですが、彼はそのことも気にせず、叫び続けたのです。

何もできない人でもできること、それは叫ぶことです。今でも同じです。私たちは、コロナウィルスを撲滅することはできません。戦争を防ぐこともできません。自分をより立派な人物にすることも難しいです。しかし、できることがあります。主イエスに叫ぶことです。自分では何もできないからこそ祈るのです。自分の無能を知る者こそ、ひたすらに主に祈れることを知ってください。

二、神の大能を知る

当時の多くの人々は、「ナザレ人イエス」と言っていました。しかしバルティマイは、「ダビデの子のイエス様」と呼びかけています。田舎出身の人物を「ダビデの子孫」と呼び、来たるべきメシアかもしれないという期待を表したのです。メシアなら盲目の人の目を開いてくださるという預言を、彼は知っていたに違いありません。神の大能の力を彼は本気で信じていました。

無視されても文句の言えない彼を、主は自分のもとに呼ばれました。すると彼は、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」主のもとに来ました。自分の唯一の持ち物だった上着に何の未練もありませんでした。弟子たちが不自由な彼を連れてきたのかもしれません。本物の求めがある人が、ほったらかしにされるはずがないでしょう。神の大能の力は、周囲の人々にも影響を与えます。

三、委ねて従う

主は、バルティマイに「何をしてほしいのか」と問われました。彼の意志を確認されたのです。彼は「先生」と答えますが、これは原語では「私の先生(ラボニ)」です。自分の求めに誠実に答えたラビは、主が初めてだったのでそう言ったのかもしれません。正直に求めを言った彼に、主は「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。自分は何もできないが、主は必ずこの願いに応えられるという信頼が、彼を救ったのです。

その後、彼は「道を進むイエスについて行った」と記されています。見えるようになった彼が最初にしたのが、主に従うことでした。この出来事の直後、主はエルサレムに入城され、十字架の道を進まれることになります。バルティマイは、きっと主の十字架のもとでその死をしっかりと見届け、また復活された主にお会いしたことでしょう。

彼の名前がはっきりと記されているのは、初代教会で重要な働きをしたからだと思われます。自分の無能と主の大能を知った者は、もはや自己中心的に生きていくことはできません。自分のすべてを主に委ね、主を第一として生きていくようになります。本物の信仰とは、自分の生き様を変えていく力をもっているのです。