2022.1.23 メッセージ内容

「どのように祈るのか」ルカ18:9-14

誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。(14節)

主イエスは、祈りについてもわかりやすい譬え話をされました。譬え話ではなくて、実際にあった出来事かもしれません。当時、人々が「義人」と考えていたパリサイ人と、「罪人」として嫌われていた取税人の神様に対する姿は、正反対でした。その結果、二人の祈りのことばも全く違っていました。どちらが神様に喜ばれたのでしょうか。

一、パリサイ人の場合

彼は自分が「義人」と自任し、胸をはって立ち上がります。そして「心の中で」(原語では「自分自身の前に」)自分の正しい行いを神に申し述べたのです。さらに彼は、自分のそばにいた取税人のようでないことを神に感謝しています。週に二度も断食するのは、律法の規定を上回る、すばらしい宗教的行為です。また十分の一献金をすることも素晴らしい行いです。

旧約時代から、神殿は「祈りの家」と呼ばれていました(イザヤ56:7)。主イエスもそれを認めておられます(マタイ21:13)。教会もその伝統を受け継ぎ、どんな集いでも必ず祈る時があります。今でも、真剣に教会で祈る人はたくさんいます。しかし、祈りは「自分は~をしています」と自分の良い行為を報告することではありません。単に感謝するだけでもないのです。

二、取税人の場合

取税人は、ローマ政府の命令に従って、同胞のユダヤ人から高額の税金を奪い取っていました。皆から嫌われていたのも当然のことでしょう。しかし、中にはザアカイのようにそれを悔い改めた人もいたはずです。ここに登場するのはそういう人でした。彼は目を天に向けようともせず、嘆きの表現として自分の胸をたたき、「神様、罪人の私をあわれんでください」と祈ったのです。

彼には、何も誇ることはありませんでした。自分がしてきたことと言えば、悪いことばかりです。そのことを洗いざらい神の前に持ち出すことしかできませんでした。主が「山上の垂訓」で言われた「心の貧しい人」とは、このような人のことです。自分を高くすることではなく、低くすることこそ、祈りの本質であることを忘れてはなりません。できない弱い罪人だから祈るのです。

三、私たちの場合

神様から「義と認められ」たのは、あの立派なパリサイ人ではなく、自分の罪を悲しんでいた取税人でした。自分を罪人だと認める人こそ、神様から「義と認められ」るとは、何という逆説でしょうか。ローマ3:28で、「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる」とパウロが言ったのは、この譬え話を知っていたからだと思われます。これこそ「信仰義認」の基盤です。

私たちの毎日の生活を正直に省みるとき、果たして誰が「自分は義人だ」と言うことができるでしょうか。神の聖さを知れば知るほど、自分の汚れが見えてきます。自分が行った良い行いは、ただ神の憐れみだと気づくのです。誇ることは何もありません。ただ主イエスの十字架のゆえと、主を誇るだけです。「誇る者は主を誇れ」と書かれているとおりです(Ⅱコリント10:17)。

私たちの教会ができて62年が経ちました。これまで多くの先輩たちが大きな犠牲をはらってこの会堂を建て、福音を伝えてきました。しかしそれを誇るのではありません。神の前には、私たちは皆、「罪人のかしら」です。そんな私たちが、神の子とされたことだけで感謝があふれてきます。そして謙遜にこの恵みを伝えるのです。