2022.1.16 メッセージ内容

「父のもとに帰ろう」ルカ15:11-24

お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。(18節)

本日の個所も「放蕩息子の譬え話」として有名です。父に背いて自分勝手に行動した息子の姿は、神のことばに背いて歩む人間を表し、息子の帰りを待っていた父親は、主なる神を譬えていると言えるでしょう。ここには、「かえる」という語が3か所で用いられており、それぞれが重要な意義をもっています。

一、我に返る

父親のもとにいることを束縛と感じていた弟息子は、父親の遺産を事前に貰いました。自分の才能を信頼し、必ず成功するという自信があったからでしょう。しかし彼は、自分で思っているほど強い人間ではありませんでした。そして欲望の赴くままに生活し、お金を費やしてしまいます。その後の飢饉で食べることさえできなくなったときに、初めて本当の自分の姿に気づいたのです。聖書はそれを「我に返った」と記します。

確かに強い人もいれば成功する人もいます。しかし、自分の能力だけでそれができたと思うなら大間違いです。自分だけで生きていけると思うなら、それは「天に対して罪を犯す」ことにほかなりません。その結果、「あなたの前に罪ある者」であるという意識をもつことができました。本来の自分の姿を認めることが我に返ることです。

二、父のもとに帰る

自分の惨めな姿を父親の前に示すことには、かなりの葛藤があったに違いありません。しかしそれ以外に方法がないと考えた彼は、大きな決断をして父のもとに帰りました。父親に言う言葉も事前に考えておきました。しかし、実際に父親に会ったとき、彼の言葉の終わらないうちに父親は彼に語ります。彼が言った以上のことを、父親ははるか以前から用意していたのです。

はるか遠くから彼を見つけ出した父親は、「かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした」のです。父親は、彼が弱い人物であることを知っていました。彼の自由にさせましたが、いつか必ず帰ってくると思って、いつも外を見ていたに違いありません。聖書の示す神はまさにそういうお方です。人間の自由意思を尊重され、自分の意志で帰ってくるのを待たれています。

三、生き返る

弟息子は肉体的には生きていました。しかし父親から見るなら、「死んでいた」のです。父親との関係が失われていたからです。アダムとエバが神のことばを無視したとき、彼らは死んだ者となったのと同様です。その関係が回復するなら、それは生き返ることになります。「罪人が悔い改めるなら…喜びがある」のは、赤ちゃんの誕生が大きな喜びとなるのと同じです。

神との関係を回復するとき、罪のゆえに死んでいた私たちは生き返ります。そして、父親のもとにいることを束縛と感じることなく、かえって喜びが溢れてくるのです。現在の私たちも、日々の生活の中で主イエスとの交わりを持ち続ける限り、死はもはや私たちを襲ってくることはありません。永遠のいのちはこのようなものです。神との交わりこそ、新しい命をもたらします。

兄息子は、まじめに働き、父親とともにずっといました。それだけで大きな恵みなのです。しかし、彼は父親から何の報いもないことを不満に思っていたことが後ほど明らかになります。私たちは兄息子のようになってはいけません。主イエスと共にいることがどれほど大きな価値をもたらすかを体験してください。