2022.1.9 メッセージ内容

「良い隣人とは」ルカ10:25-37

この3人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。(36節)

主イエスは、神の国とはどんなものかを教えるために多くの譬え話をなさいました。ある律法の専門家の、「何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」という質問についての答えにも、神の国の奥義が示されています。神の国においては、隣近所に住む人だけが隣人ではないことが明確に語られているのです。

一、祭司やレビ人なのか

彼らは旧約聖書で定められている地位にあり、律法をよく知っている人たちでした。しかし、同胞のユダヤ人が強盗に襲われた現場に遭遇すると、知らぬ顔をして立ち去ってしまったのです。彼らは「隣人を愛せよ」との律法を知っていたはずですが、死人に触れると7日間汚れるという規定(民数記19:11)を優先して自分の仕事に向かったのかもしれません。あるいは、同じ災難にあうことを恐れた可能性もあります。

私たちも、聖書の戒めを知っていて、隣人を愛することも心がけていると思います。しかし、正直に考えてみると、その戒めに従っていないことが結構あるのです。困っている人を見ても、自分の仕事を優先する場合もあります。そんな時、他の人に対する愛が少ないことを思い知らされます。でも、それを自覚することが必要なのです。

二、サマリア人なのか

サマリア人とは、ユダヤ人と他国人との混血の民だったので、正統的ユダヤ人は彼らを蔑視していました。このサマリア人がそのことを不快に思っていたなら、ユダヤ人が重傷を負っていても無視したことでしょう。しかしこの人は、彼を助けただけでなく、宿屋に連れて行って介抱します。さらに宿屋の主人に自分の金を払い、彼の世話を依頼することまでしたのです。

このサマリア人のように、自分を見下すような人に対しても、誠実な態度を示すことができるでしょうか。仲良くしている人を助けることは何度かあったとしても、仲の悪い人にまでそうしたことはあったでしょうか。しかし主は、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われました。主は、不可能なことをするように命じられたのではなく、神の国をめざすよう励まされたのです。

三、主イエスなのか

ここで見方を変え、自分が「強盗に襲われた人」であったらと考えてみましょう。自分が苦しんでいると仮定したときに、だれが隣人になってくれるでしょうか。家族や友人、教会の兄姉という場合もあると思います。でも、自分の嫌いな人なら、別に助けてもらわなくても良いとさえ思うかもしれません。それは自分のプライドや、相手への嫌悪感から来ている可能性もあります。

私たちは、やるべき正しいことをせず、やってならない悪をしてしまうような弱い者です。サタンに牛耳られているような自分であることを自覚したとき、その自分を助けてくれたお方が主イエスであることに気づくのです。主が自分の隣人になってくださったことは「恵み」であることを知りましょう。そのままでは死に至るような者を愛して、主イエスは十字架を負われたのです。

この箇所を読んで、「良い隣人にならねば」と自戒することも必要です。しかしその前に、私たちの隣人となってくださったお方がおられることを知ることのほうがもっと大切です。「あなたも行って同じようにしなさい」と言われた律法の専門家は、その後、どうしたでしょうか。主に従っていったのかも知れません。