2021.10.24 メッセージ内容

「選ばれたダビデ」 Ⅰサムエル16:6-13

彼の容貌や背の高さを見てはならない。・・・人はうわべを見るが、主は心を見る。(7節)

イスラエルの民は、神が王であることを認めず、人間の王を求めました。主は、あえてその願いを聞き届けられましたが、最初の王サウルは、主の声に聴き従わない人でした。そこでサムエルは、新たな王を選ぼうと主に祈り求めます。主は、サムエルの考えと違った基準を示されました。

一、顔かたちによらない

主は、エッサイの息子の中に新たな王を見出したと仰せられ、サムエルをその家庭に遣わされました。長男エリアブは、容貌も立派で背も高く、王になるのにふさわしいとサムエルは思いました。でも主は、「わたしは彼を退けている」と言われます。そういえば、最初の王サウルも美男子で長身でした(9:2)。次男も三男も不合格でした。次から次へと7人の息子たちが紹介されましたが、主はだれをも選ばれなかったのです。

現代社会では、特に人の容貌が重要視されます。結婚の条件が「三高」と言われたこともありましたね。しかしそれらは人のうわべであって、その人の本質を表してはいません。もし顔かたちが良いとしても、それは親から受け継いだものであって、本人が誇るところなど何もないのです。謙遜に神に感謝することが大切です。

二、年齢にもよらない

「子どもたちはこれで全部ですか」との問いに、父エッサイは羊の番をしていた末の子を紹介します。彼はまだ10代前半だったので、「まさかこの子が」と思っていたのでしょう。確かに、年齢が若いために大切な働きができない場合もあります。しかし、神の選びは年齢に左右されることはありません。年若くても、あるいは老人でも、主の働きのために選ばれることはあるのです。

現在、牧師になる人たちが不足しています。昔は若い時に主の召しを受けて、献身する人たちが多数いました。しかし現在は、50歳を過ぎてから、あるいは定年後に神学校に行く人たちもおられます。もちろん若いときに献身し、良い訓練を受けられるなら、それに越したことはないでしょう。でも、社会での経験が人の心を理解する助けになることもよくあります。主は、その人にしかできない奉仕をさせられるのです。

三、その心による

末の子こそダビデでした。彼は「血色が良く、目が美しく、姿も立派」でした。外見も悪くありませんでしたが、「主は心を見る」お方です。それゆえに彼は選ばれ、主はサムエルに「彼に油を注げ」と命じられました。父親や兄弟は、サムエルが指導していた預言者学校の特待生に選ばれたのだと思っていたのかもしれません。その日、王に必要な主の霊がダビデの上に下ったのです。

ダビデが正式に王になったのは、30歳を過ぎていたと推測されます。それまで約20年、彼は様々な苦難を経験することが、この書に記されています。これは、彼が神の民イスラエルの王になるために、どうしても必要な期間でした。苦難を経験してこそ、民衆を治めることができるからです。その間、「主の霊」はダビデと共にあり、彼の心を整えていきました。

私たちは、人間的な基準で人を判断してはなりません。外見を無視するわけではありませんが、本当に大切なのは目に見えない部分なのです。神がどのようにご覧になるかが、何よりも重要なのです。容貌を気にするよりも、私たちの心が神様にどう向かっているかを点検しましょう。そういう人を、主はご自身の働きに用いられます。