2021.10.17 メッセージ内容

「王を求める人々」 Ⅰサムエル8:1-9

彼らはあなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。(7節)

12部族の連合体だった士師政治が200年ほど続いた後、神はサムエルを選ばれてイスラエルの指導者とされました。しかし、周辺諸国が王を抱いて中央集権制度を作り、軍事的な力をもつようになったので、イスラエルも彼らと対抗するために王を求めるようになったのです。

一、士師が指導者なのか

サムエルは、宗教的にも政治的にも卓越した指導者として活躍していました。しかし、彼が士師として任命した息子たちは父の道に歩まず、好き勝手な行動をしていたのです。本来、特別な賜物を持っている人物が神によって選ばれて士師となるべきなのに、どういうわけか、世襲制に変わってしまっていました。長老たちがこの状況を見てサムエルに訴えたことは当然とも言えます。

どんな立派な制度や政治体制でも、人が権力の甘みを経験し、自分の利益を求めるようになると、それは次第に腐敗していきます。現在の民主政治であっても、その危険性を逃れることはできません。また、周辺諸国の変化も、国の姿を変えるきっかけとなります。現在、日本をとりまく状況を見れば、この時と似通っていることに気が付かれるのではないでしょう。

二、神が指導者なのか

長老たちの「私たちをさばく王を立ててください」という声は、神こそがイスラエルの指導者であり王であることを否定することでした。神以外のものに拠り頼もうとすることは、偶像崇拝と同じ意味をもちます。イスラエルは、どんな人物が指導者になろうと、神が支配者である「神の国」であるという大原則を打ち壊すことだったのです。神はこれをサムエルによって示されました。

「神が王」というと、戦前の日本や現在のイスラム諸国のように、熱狂的で恐ろしいもののように思われます。でもそれは聖書の教えることではありません。人間の支配者を絶対視しないということなのです。ある特定の人物が崇拝され、その人の意思で国が動くことは、最も避けねばなりません。現代の世界を見るなら、あちこちにそのような傾向があります。神に従うという謙遜な思いがない指導者は、最悪のことをしてしまいます。

三、王が指導者なのか

不思議なことに、神は「王を立ててください」という長老たちの願いを聞き入れるようにサムエルに語られました。しかし、王政の持つ根本的な問題を語るように命じられたのです。戦争・徴兵・税金・官僚・奴隷などの様々な重荷を民は負わねばならないのです。それでも彼らは王を求めました。他国と肩を並べたかったからです。「神の国」ではなく「人の国」を造りたかったのです。

世界には様々な政治制度があります。試行錯誤を繰り返しながら、良いものを求めているからでしょう。「民主政治」もその一つですが、決して絶対ではないことを、今、多くの人々が感じているのではないでしょうか。指導者が権力を用いるときには、弱い立場の人々をどれだけ配慮するかが問われています。人々も、自分の利益を求めるのではなく、神と人への愛によって行動するのでなければ、真の平和はおとずれません。

教会は「神の国」の一部です。様々な問題があっても、神と人への愛が優先される必要があります。牧師が王のよう、役員は官僚のようになってはなりません。みな、キリストに仕える「しもべ」なのです。「愛をもって互いに仕え合いなさい」とのみことばに生きる者となりましょう。