2021.10.10 メッセージ内容

「私たちの住まい」 Ⅱコリント5:1-7

人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。(1節)

「父と母を敬え」とは、十戒の第5戒です。それは生きている父母だけではありません。すでにこの地上にはいなくても、敬うべきです。その現われが追悼記念礼拝と言えます。このときに私たちは、天と地に分かれて住んでいても、永遠に生きておられる唯一の神を礼拝するのです。

一、地上の住まい

聖書は現在の私たちの肉体を「地上の住まい」と表現しています。それは「幕屋」とも言われ、簡素なものであることが暗示されているのです。私たちが現在の肉体によって生きる間は、様々な苦しみがあり、うめいています。病気もそうですし、人間関係の煩わしさにも耐えねばなりません。あまりに苦しいので、自分の命を自分で取り去る人がいることも、否定できない現実です。

自分のからだに劣等感をもつ人もいます。障がいをもって生まれた人もいます。しかし、肉体なくして、人は生きることはできないのです。私たちが生まれた時からもっているからだは、それだけでも尊いことを忘れてはなりません。「みんな違って、みんな良い」と詩人金子みすずは記しています。なぜなら、そのからだを与えてくださったのは全能の神だからです。

二、永遠の住まい

この肉体は有限のものです。いずれはこのからだは終わりを迎え、灰になってしまいます。幕屋は壊れるのです。しかし、肉体を与えてくださった神は、「永遠の住まい」も用意くださっていると聖書は明言します。それが「天から与えられる住まい」です。このからだは「死ぬはずのもの」ですが、それが「いのちによって吞み込まれる」と高らかに宣言しているのです。

多くの日本人は、死んだらからだも魂もなくなり、存在しなくなると考えています。それが目に見えるものの究極の姿なのだから、あきらめるよりほかに道はありません。でも、本当にそれで良いのでしょうか。何もかも消滅する。聖書はそれを「滅び」と言っています。目に見える肉体や現実の世界だけがすべてだとしたら、諸行無常という言葉どおりです。しかし聖書は、永遠に続くものがあるというのです。

三、信仰によって歩む

このことの保証として、目に見えるこの肉体のなかに、「御霊」が与えられていると聖書は言います。御霊とはキリストの霊です。2000年前、地上に誕生されたイエス・キリストが、この私の心にいてくださる。それが「信仰によって歩む」ということです。ここに、世の人々とまったく違った世界観が示されています。見える世界だけに生きている人はとても信じられないことでしょう。

見える世界が全てと考えるか。見えない世界もあると考えるか。この考え方の違いで、私たちの歩みは変わります。死に対して恐れをもつのか。いやその先の永遠の住まいを望んで生きるのか。どちらでしょうか。どちらが絶対的に正しいとはだれも言えません。しかし、私たちは「見えない世界がある」というほうに人生を賭けました。万が一、その賭けに負けたとしても、何もなくなるのでしたら、損にもなりません。

すでに地上を去った方々が滅びてしまったと考えるなら、このような記念会は無意味になってしまいます。死で終わりと考える人々でも、亡くなった方々を思い出す機会をもちたいと願っています。それを単なる希望としないで、確実な約束と受け取れることは何と幸いでしょうか。