2021.8.29 メッセージ内容

「伝道の原動力」 使徒23:1-11

主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。…」と言われた。(11節)

エルサレムに到着して数日後、案の定、パウロはユダヤ人の妬みにより捕らえられ、最高法院で弁明をすることになりました。そこには、主イエスを十字架に追い込んだユダヤ人の宗教権力者がそろっています。パウロは彼らに自分の福音宣教の原動力を大胆に証ししたのです。

一、健全な良心

パウロは開口一番、「健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました」と主張します。高慢な発言と思ったのか、大祭司のアナニアは怒って彼の口を打つように命じました。しかしパウロは臆すことなく、「律法に背くことをするな」と反論します。彼には、地上のどんな権力者よりも強いお方が共におられたゆえ、このような大胆な行動ができたのです。

私たちも、このパウロのような確信があるでしょうか。もちろん高慢と受け取られるような言動は慎まなくてはなりません。でも少なくとも自分自身に対しては「健全な良心」は何かをみことばから教えられることは必要です。自分勝手な良心ではなく、「神の前に生きている」という自覚を持ちましょう。それが、主が共におられるとの臨在信仰を生み出します。

二、復活の確信

最高法院の中には、復活を信じる人とそうでない人がいました。パウロはそれに気づいて、あえて「私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けている」と発言します。単に法廷戦術というだけではなく、彼自身がそう確信し、それを伝えたいと願っていたからです。復活された主イエスが自分に現れ、はっきりと語ってくださったという事実が、彼を伝道に駆り立てていた原動力でした。

現代の私たちも同じです。復活された主イエスは、今も生きておられます。人間であるなら、たとえ蘇生してもいつか死にます。復活の目撃者は、復活こそが主の神性を証明することだと主張したのです。もし主イエスが復活されなかったら「私たちの宣教は空しい」とさえ記されています(Ⅰコリ15:14)。復活を否定するなら、死後の命は単なる「願望」でしかありません。

三、神の指針

裁判が終わった後、パウロが静まって祈っていたときに、主は彼のそばに立って「勇気を出しなさい」と励まされました。そして、「ローマでも証しをしなければならない」と指針を示されたのです。主は過去に三度、重要な時にパウロに直接語られました(9:5,18:9,22:18)。彼の伝道は、常に神の指針によって導かれてきたことを忘れてはなりません。

神は今でも私たちに指針を与えてくださいます。もちろん、直接に神のことばが耳に響いてくるわけではないでしょう。しかし、聖書のことばが示されることはしばしばあります。「この町には、わたしの民がたくさんいる」との聖句で、多くの人々が宣教の力をいただいて来たのです。この町、西宮には、神が選んでくださっている民がいます。見つけ出しましょう。

伝道することは、すべてのクリスチャンが願っていることです。しかし、どのような方法があるかは千差万別です。大切なのは方法ではなく、自分の生き方です。周囲の方々に、「あの人と共にいるだけで心が安らぐ」という感想をもってもらう生き方ができるなら、どこであっても伝道は静かに進んでいくのです。