2021.7.18 メッセージ内容

「祈っていた教会」 使徒12:1-17

「教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた」。 (5節)

初代教会が成長していった最大の理由は、心を一つにして祈っていたことです。特に、当時の権力者から迫害を受けたときには、祈らずにはおれませんでした。祈りは空気を振動させるだけではなく、生きておられる神様に実際に届くのです。そして、人間の考えを超えた神のわざが現れることが今日の個所から分かります。

一、応えられなくても

どんなに熱心に祈っても、応えられないと思える場合は確かにあります。すでにステパノが殉教者第一号になっていましたが、さらに12弟子の一人であるヤコブも殺されてしまいました。教会では、彼らが助けられるように必死に祈っていたに違いありません。でも現実は違いました。ペテロが捕らえられた時にも、教会はあきらめずに祈っていました。教会がこの時にできたのは、祈り以外になかったからです。

祈ってもその通りにならない場合、「本当に神はおられるのだろうか」という疑問を持つのは当然です。でも、自分の願いを叶えさせるのが祈りの目的でしょうか。「神は、自分の願いをはるかに超える計画を持っておられる」と考えることはできないでしょうか。神に対する全幅の信頼こそ、キリスト教信仰の基盤なのです。

二、応えられても

厳重に警戒された牢獄に閉じ込められていたペテロのため、教会は熱心に祈っていました。その時、常識では考えられないことが起こりました。主の御使いが奇跡的な方法でペテロを助け出したのです。ペテロ本人さえ、それを幻のように思ったほどです。確かに教会の祈りは応えられましたが、それは彼らが想像できる形ではなかったことに注目してください。

祈りは応えられます。しかし、どのような形で応えられるかはわかりません。応えられないことが神の答えの場合もありますし、今回のように、自分たちの想像しなかった形で神が応えて下さる場合もあるのです。自分の小さな考えで神のなさることを限定してはなりません。祈りが応えられた時には、より謙遜になって、感謝する者となりましょう。「自分の祈りで、このようになった」と傲慢になってはなりません。

三、神は働いておられる

ペテロが当時の集会場所と推測されるマリアの家に戻ったとき、だれもがペテロ本人だと信じることができませんでした。ロダという女中は「気が変になっている」と言われ、「ペテロの御使い(守護天使)だ」と言う人もいました。祈っていたのに信じられない。良くある話です。しかし、ペテロ自身も信じられなかったので、彼らを批判することはせず、追手が来ても大丈夫なように、どこかに身を隠しました。

「信仰深い人の祈りしか神は聞かれない」と考えている方もいるでしょう。決してそうではありません。不信仰であっても祈れるし、不信仰だからこそ祈るのです。大切なのは、今も働いておられる全能の神に信頼することです。自分が祈ったとおりになることを求めるのではなく、神にすべてを委ねようではありませんか。

祈りなくして、教会は存在できません。自分や自分の家族のために祈ることも大切ですが、それは個人の祈りです。主を信じる者たちが互いのために祈ってこそ、教会です。「集められて祈り、散らされて宣べ伝える」という使命を果たしていく者になろうではありませんか。