2021.6.20 メッセージ内容

「信仰に生きる人」 使徒6:8-15

ステパノは恵みと力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行っていた。 (8節)

初代教会は内憂外患、様々な問題がありましたが、信仰によって一つずつ解決していきました。ステパノも「信仰と聖霊に満ちた人」の一人でしたが、初代教会最初の殉教者となりました。彼がどのように生きたかを、本日の個所から学んでみましょう。

一、聖霊に満ちていた

ステパノは、教会の中の弱い立場の人々を助けるために選ばれた人でした。彼は主イエスのことを常に思い出し、主の歩まれたように生きたようです。その結果、「不思議としるし」が現されました。聖霊に満ちた人は、主と同じような働きをします。主が、彼を通して働かれるからにほかなりません。聖霊に満ちた人は、主からの恵みと力に満ちた人なのです。

聖霊に満たされるとは、恍惚状態になることではありません。普段の生活の中でも、主イエスが一緒におられることを意識することです。主イエスならどうされるかを考えながら生きることです。24時間中そうすることは不可能でも、大切な決断をするときには、まず主に祈り求めます。そのとき、人の願いをはるかに越えた、神の恵みのわざがなされるのです。

二、反対者を恐れない

主を信じて歩むなら、何もかも順調にいくというわけではありません。主もそうでしたが、反対者が現れることもよくあるのです。ステパノに反対したのは、外国で奴隷だったのに多くの苦難を克服して母国に帰ってきた人々でした。彼らはモーセの律法や神殿を重視するあまり、ステパノが伝えていた罪の赦しの福音を理解することができませんでした。ステパノと議論しても対抗できなかったため、その腹いせに彼を無実の罪に陥れようとしたのです。

自分の努力で成功した人や、自分の正しさを主張する人は、神の恵みを理解することが難しいようです。パウロもそういう人でした。現代にもそういう人は多数います。そういう人たちは、神を信じるのは弱い人だとか、善行を積むことによって人は悟りを得るとか話します。すべての人が罪びとであり、神の恵みによってのみ救われるということが理解できないのです。

三、御使いの顔に似ている

主イエスと同じように、宗教裁判を行う「最高法院」に連れていかれたステパノでしたが、彼の顔は御使いのように見えました。怒っている顔でも、悲しんでいる顔でもありません。十戒を与えられた時、モーセの顔が輝いていたと記されていますが、そのようだったのかもしれません。確かに、ステパノはこのような苦難の時であっても、主を信頼しているゆえに平安でした。迫害されるときに、「話すのは、父の御霊です」と、主が約束されていたことを、ステパノは知っていたからでしょう(マタイ10:20)。

御使いとは神的な存在です。その顔を見た人は滅多にないので想像するしかありませんが、少なくとも、慌てふためき狼狽するような顔ではなかったでしょう。信仰者の顔は、確かに人に平安をもたらすのです。

信仰に生きるとは、主イエスを信頼し、主に祈りつつ歩むことです。たとえ、反対者に会ったり苦難に直面したりしても、心配する必要はありません。共におられる聖霊が、何を語るべきか、どのように行動すべきかを教えてくださるからです。どんなに平安でしょうか。