2021.5.9 メッセージ内容

「共に祈ろう」 使徒1:12-14

「女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに…祈っていた。」 (14節)

主イエスが昇天された後、弟子たちはエルサレムに帰りました。彼らの心にはぽっかりと空洞があいたようだったでしょう。しかし彼らは主のことばに従い、共に祈ることにしたのです。彼らはこの時にどのように祈ったのかが、この箇所に明確に記されています。

一、同じ場所で

主が昇天されたオリーブいう山は、エルサレムの町から1kmほどの所にありました。彼らが泊まっていた「屋上の部屋」は、最後の晩餐の時、あるいは復活された主が顕現された時の部屋だったかもしれません。福音書記者のマルコの母親の持ち家だった可能性もあります。これ以降も、弟子たちはこの部屋によく集まったのではないでしょうか(12:12)。もしそうなら、世界で最初の「教会」と言うこともできる、記念すべき場所でした。

現代でも、主イエスを信じる人々は共に集まって祈ります。コロナ感染の恐れがあったとしても、あえて集まるのはなぜでしょうか。それは、具体的な場所において共に祈り、共に主を礼拝することが、信仰生活を支えるからです。電話や画像で簡単に会うことができる時代でも、実際に顔を合わせることは非常に大切です。

二、様々な人々が

ここには、主を裏切ったユダを除く11名の弟子たちがいました。彼らは、最後の晩餐の時には誰が一番偉いのかと論争していたような荒削りの人々でした。また、復活の主に最初に会ったマグダラのマリアや、主の母親のマリア、さらに主の弟にもかかわらず、長く主を救い主と認めていなかったヤコブとユダもいました。彼らはみな違った背景をもっていましたが、十字架と復活を通して、共に集まる群れとなったのです。お互いを受け入れあうことは、この時にもすでに実現していました。

教会は老若男女、どんな人でも集まれるところです。性格が違っても良いのです。この場所に主イエスが共におられるとの信仰を持つなら、どんな人でも「兄弟姉妹」であることを受け入れ、支え合うことが何よりも大切です。

三、心を一つにして

集まった弟子たちは、「心を一つにして祈って」いました。食事も会話もしなかったとは思いませんが、祈ることが最大の目的だったのです。彼らは自分の力のなさや、ユダヤ人を恐れる心があることなどを自覚し、「もう一人の助け主」である聖霊が与えられるよう、待ち望んでいました。その中で、自分の傲慢さや罪深さが示され、悔い改めたことでしょう。祈る時には、自分の姿と主の恵みが同時に明らかになります。

一人で神に訴え、祈ることは重要です。しかし、共に祈る時には、同じ主を信じる他の兄姉のことを忘れてはなりません。主イエスは最後の晩餐の最後に、弟子たちが「完全に一つになるため」に祈られました(ヨハネ17:23)。そのためには、互いが謙遜になることが不可欠です。主の前にも他の兄姉の前にも、遜った思いをもつなら、聖霊は必ず臨んでくださいます。

私たちはみな、弱い者です。だからこそ共に集まって祈ります。自分の祈りだけでは心細くて、皆に祈ってもらいます。主イエスが共にいてくださらなければ、私は一日たりとも歩めないという自覚をもつなら、初代教会のような勇敢な行動が生み出されると知ってください。